2013年5月6日月曜日

現代に残る自然信仰(第1章:縄文の記憶02)

現代に生きる私たち日本人の中に生きる縄文の記憶とは何なのか。大きく分けて、それは自然信仰と平等意識と母性原理の文化の三点ではないかと指摘した。ここではそのうち自然信仰について見ていく。

 私たちの日常生活を見渡すと、アニミズム的な自然信仰に根差すと思われる習俗や風習が多く残っているのに驚かされる。しかも、ただ形だけが残っているのではなく、意外と私たちの心を縛っている場合もある。ペットや魚など生き物の供養だけでなく、人形供養、針供養、箸供養、包丁供養など、無生物さえ供養する風習が残っているのは、私たちのなかにアニミズム的な感性が残っている証だろう。家を建てる前に地鎮祭を行わないと何となく気持ちが落ち着かないのも、同様の感性に根差しているのかもしれない。

 私にもこんな経験がある。引っ越しのため物置を整理していたら、いちばん下の方から古い日本人形が一体出てきた。湿気の多い場所だったので、着物はボロボロ、顔はしっかりしていたが首のあたりが腐ったようにえぐれていた。それを見た娘は、「可哀そうに」と合掌し、私も思わず手を合せた。人形とはいえ、そこに何かしら「いのち」を感じて合掌してしまう心はどこから来るのか。

 注連縄(しめなわ)は、現代の日本の日常的な光景のなかでも多く見かけるありふれたものだろう。神社やそのご神木などに見られるだけでなく、正月に家の門や、玄関、出入り口に飾られ、自転車や自動車などにする注連飾りも注連縄の一種だ。大相撲の「横綱」もまた見事な注連縄だ。ところで、注連縄は、交合する雄と雌の蛇の姿を表すともいう。とすれば縄文人の蛇信仰が、注連縄という形で現代日本のありふれた生活空間の中にも生き残っているのかもしれない。

 古代の日本は蛇信仰のメッカであった。蛇は祖神(おやがみ)である。外形が男根に似ているから、生命や精力、エネルギーの源とされた。脱皮をすることから生命の再生、更新の象徴とされた。マムシのように猛毒をもって相手を倒すから、人間を超えた恐ろしい力をもつ存在として崇められた。(吉野裕子『蛇 (講談社学術文庫)』『山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰 (講談社学術文庫)』)

 縄文中期の土器は、生々しい活力に満ちた蛇のごとき造形で注目される。縄文土器の縄文そのものが蛇に関係していたかも知れない。遮光器土偶の蛇のような眼も、縄文人の蛇信仰が呪術にとって大切な意味をもっていたこと関係があるかもしれない。土偶に蛇の眼を与えることで、死者の再生を願ったのではないか。
現代日本人にとっても山は信仰の対象となるが、縄文人にとっての山は、その下にあるすべての命を育む源として強烈な信仰の対象であっただろう。山は生命そのものであったが、その生命力においてしばしば重ね合わされたイメージがおそらく大蛇、オロチであった。ヤマタノオロチも、体表にヒノキや杉が茂るなど山のイメージと重ね合わせられる。オロチそのものが峰神の意味をもつという。蛇体信仰はやがて巨木信仰へと移行する。山という大生命体が一本の樹木へと凝縮される。山の巨木(オロチの化身)を切り、麓に突き立て、オロチの生命力を周囲に注ぐ。そのような巨木信仰を残すのが諏訪神社の御柱祭ではないか。いくつかの地域の祭りに見られる、蛇にみたてた綱の綱引きなども縄文時代以来の蛇信仰の名残りだろう。私たちの心は縄文人の心にどこかでつながっているのだ。これは日本文化を考えるうえできわめて重要なことだ。(町田鳳宗『山の霊力 (講談社選書メチエ)』)

 ところで蛇信仰は日本だけに見られるのではない。蛇とかかわりの深いメソポタミアのイシュタル女神は、死と再生、大地の豊穣性をつかさどる祭祀にかかわりをもっていた。地中海沿岸も、かつては蛇信仰の中心であった。ギリシアの聖地デルフォイには、黄金の三匹のからまりあう大蛇が聖杯を捧げている彫刻があった。アテネのパルテノン神殿には、人間の頭をもった三匹の蛇がからみあった彫刻がある。この他にも蛇が表現された遺跡は多く、古代地中海の人々と日本の縄文人とは、蛇によって象徴される何かしら共通した世界観をもっていたのである。

 ところが、森が消滅した現代のギリシアでは、夏の岩肌に蛇はめったに見られない。森が消えるとともに蛇も姿を消し、森のこころは永遠に失われてしまったのである。これに対して日本列島は、多様な森の環境が長く維持され、そのなかで育まれたアニミズムや自然信仰、あるいは多神教的な神々を維持する条件に恵まれていたのである。

2013年4月19日金曜日

縄文文化のユニークさ(第1章:縄文の記憶01)

一人ひとりの人間が、それぞれの個性をもち、ユニークな存在であるのと同様に地球上のどの民族も文化も国家も、それぞれにユニークな特徴をもつ独自な存在である。日本文化だけがことさらユニークなのではないだろう。しかし、ある視点から見るとき、世界の他の民族や文化にくらべて日本がどのようにユニークかということが、かなりはっきりと見えてくるように思う。と同時に他の文化や民族も、それぞれのユニークさが浮かび上がる独自の視点が存在するのだと思う。私たちは、日本人である以上、世界の他の様々な文化とは違う日本文化のユニークさがとくにはっきりと見えてくる視点を知り、そこから自分たちの文化や社会への理解をより深める必要がある。

その視点が、日本文化のユニークさの条件となる8項目なのだが、その中でもとくに第一番目の項目が大切だと思う。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

縄文文化は、日本文化を形成する上でのもっとも古い層をなしているが、それだけでなく現代に生きる私たち日本人が、もっとも気づきにくいかたちで、いまなお私たちの心のなかに生き続け、影響を与え続けているのだ。

これまでに無数の日本人論や日本文化論が書かれてきたが、その主張を縄文文化にまでさかのぼって基礎づけているものは意外と少ない。しかし日本列島に1万数千年も続いた縄文時代が、その後の日本の社会や文化に与えた影響は私たちがこれまで認識していた以上にり大きいと思われる。縄文文化の影響を視野にいれながら日本人論・日本文化論を読み直すことはきわめて重要なことだ。

その作業が重要であるひとつの理由は、縄文文化という農耕文明以前の文化が消滅せずに、高度文明社会に生きる現代人の心の基層に息づいていることは世界史の流れの中でもきわめてまれなことで、それ自体が日本文化のユニークさをなすひとつの要因だからだ。この事実の重要さは、私たちが想像する以上に大きいのかも知しれない。

旧石器文化を人類史の第一段階とするなら、農業の開始とともに始まる新石器文化はその第2段階をなす。縄文文化は、土器を制作し定住していたという、明らかに旧石器文化にはない特徴をもっている。それでいながら新石器文化の本質をなすはずの本格的な農業を伴わない。農業を新石器文化の前提としてしまうと、縄文文化をうまく位置付けることができない。

縄文文化は、「新石器文化に併行あるいは相当する日本列島の文化」というような苦し紛れの定義でもしないと世界史上に位置付けられないユニークさをもっているのだ。人類史上の第2段階に、農業を伴うものと伴わないものという二つがあり、縄文文化は後者だと考えざるを得ない。

私は、本格的な農業を伴わない新石器文化という縄文文化の特徴は、日本文化全体を語るうえでどれほど強調してもし過ぎることはないほど重要な意味をもっていると考える。日本列島に住む人々が、1万数千年にわたってこのような縄文文化を生きたということが、その後に展開した日本文化の全体に深く影響していったのではないか。

日本列島で歴史の第1段階から第2段階へという縄文革命が起こった引き金は、土器の制作と使用だったという。土器を使うことで煮炊き料理が可能となり、食糧事情も安定した結果、ムラでの定住的な生活様式も始まった。

縄文時代の土器の制作量は、本格的な農耕をともなわない社会としては、世界のどの地域にくらべてもきわだって多いという。縄文人が、土器を日常的に煮炊きに使っていた結果である。縄文社会が、農業を基盤とした大陸の社会に劣らない文化的な充実度をもっていた大きな要因に、煮炊き用の土器の普及があったと言えよう。土器はそれほど重要な歴史的意義をもっていた。

農耕民は、自然に依存しながらもそれをあるがままにせず、開墾して農地を拡大する方向に進む。ムラという人工空間の外に、農地=ノラというもうひとつの人工空間を作り、それをさらに拡大しようとする。その意味では、自然に依存するだけでなくそれを征服しようとする意識も強化される。

一方縄文人は、ムラの周囲のハラを生活圏とし、その自然と密接な関係を結ぶ。自分たちの生活がそこに依存するハラを勝手に荒らせば、自分たちの生存が脅かされることを縄文人はいやというほど知っていた。周囲の自然を荒らしすぎず大切に守り、そこから許されるだけの恵みを得ることで、自分たちの永続的な生存が保障されるのだ。こうして彼らは、ハラのさまざまな自然の背後に精霊を感じ、その恵みに抱かれて生きていることを実感しただろう。縄文人は、木や草や川や森や様々な生き物を自分たちと同格の存在、あるいはそれ以上の神聖な存在と感じていたのだ。(小林達雄『縄文人の思考』)

大切なのは、日本列島に生活した私たちの祖先は、新石器文化の段階に入ってもなお、そのような自然との関係を1万数千年も保ち続けていたということだ。新石器時代の人類としては、かなり特異な自然との共生を、世界の他地域よりも驚くほど長期にわたって保ち続けていたのが、私たちの祖先なのだ。その記憶や影響が現代の私たちにまで色濃く残っていたとしても不思議ではない。

では、現代まで消滅せずに日本人のあり方の基層となっている縄文文化の記憶とは何だろうか。それは大きく分ければ次のような三点に整理できると思う。第一に、豊かな森と海に恵まれた自然の中で育まれた、自然への畏敬を基礎とする宗教的な心性であろう。それが多少とも現代にまで引き継がれている。第二には、農耕の発達にともなう階級の形成や、巨大権力による統治を知らない平等な社会が1万数千年も続いたことが、現代日本人の平等意識にまで何かしら影響を与えたのではないかということである。第三には、豊かな自然の恵みを母なる自然の恵みとみなす母性原理の心性である。これは「日本文化のユニークさ」の1項目目に基礎をおくが、母性原理の文化は、現代日本文化のかなり大きな特徴にもなっているので2項目として独立させた。

2013年1月5日土曜日

ブログを始めるにあたって

本日から、ブログ「日本文化のユニークさー縄文からアニメまでー」を開始したい。このブログにアップする記事は、以下のブログで書き溜めてきたものを、体系的に整理したものとなる。

クールジャパン★Cool Japan

私はこれまで上のブログで「日本文化のユニークさ」を、次のような8項目にわけて考察してした。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(3)森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

(4)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

(5)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

(6)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

(7)以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。

(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

この8項目は、まだ暫定的なものであり、今後変更したり、文言を変更したりもありうるが、今後、この8項目にそって、これまで書き溜めてきたものを整理していきたいと考えている。
本日から、このブログを開始する。ここでアップしていく記事は、いかの復活させたい。しかし、これまでとは少し違う形にしようと思っている。以前は、 クールジャパン★Cool Japan のミラー版として利用していたが、今回の復活にあたっては、上のサイトの内容の、よりまとまったかたちを、こちらでアップしていくつもりである。たとえば、本にして出版するときに原稿に近いかたちで、これまで書いてきたものをまとめるために、このブログを使う予定である。 ブログのタイトは、「クールジャパン★Cool Japan」だが、内容により近いタイトルをつけるとすれば「日本文化のユニークさ―縄文からアニメまで―」といった感じになると思う。私はこれまで「日本文化のユニークさ」を、次のような8項目にわけて考察してした。 (1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。 (2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。 (3)森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。 (4)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。 (5)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。 (6)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。 (7)以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。 (8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。 この8項目は、まだ暫定的なものであり、今後変更したり、文言を変更したりもありうるが、今後、この8項目にそって、これまで書き溜めてきたものを整理していきたいと考えている。